ちょうど私の奥さんが出産準備で自分の実家へと帰って不在というのもあり、昨日は仕事帰りに実家へと寄って夕飯を食べ風呂に入ってきた。
とは言いつつも、私も一人息子の手前、奥さんが実家に帰っているのに一度も顔を出さないのもどうかという部分もあったのだが。
ただ、どうせ行っても、また母とつまらない口論をするだけなので、億劫ではあった。
そして、案の定、帰り際にまたつまらないことで口論して帰ってきてしまった。
私も、間もなく子供を持つ身であるので、いい加減大人にならなければという気持ちもあるのだが、私自身の全身で母に対する拒否が働いてしまうのはいつものことである。

母は、典型的な潔癖型のお譲様で、あの年齢で短大を出ていると言うことは、やはり珍しく、それは、それなりの地位がある家柄に育ったということで、そして、それが母のバックボーンの全てとなっている。
母にとっては、物事は自分の価値観を基準とした良い悪いの二通りしかなく、自分の価値観が唯一絶対であり、自分の価値観に合わなければ全てを否定し、受け入れようとすることはしない。
母は、人からどう見られているか、自分の家がどう見られているか、自分の息子がどう見られているか・・・つまり世間体が大事な人であり、自分の価値観を裏切られると、けなし否定することで自身のアイデンティティを守ろうとする人なのである。本人は特に意識はしていないのだが・・・。
私はかなり大きくなるまで、自分の父が、母が普段話していた大学とは違う大学を出ていたということを知らなかった。そして、色々な提出物(私の内申に関わるというだけで)に、その違う出身大学を書いていたようである。どちらも同じ国立大で私にとっては、どっちでもそれほど大差は無いと思うのだが、母の中では明確な順位があったのだろう。

私にとっての家とは物心ついた時から、”ここではないどこかへ”といういつかは逃亡するべき場所でしかなかった。
私が子供の時に行われた、母の価値観による私自身の欲求に対する明確なる根拠無き否定。それは私自身の思い自体を奪うことにより行われる洗脳の何物でもなかったように思う。

私は生まれた時から弱い子供であった。
小児喘息を患い母にとっては手のかかる一人息子のようであった。
だから母にとっては自分が守って全てを行わなければならないという義務感にかられての母なりの私に対するアプローチ、自分の価値観全てを私に植え付けることにより、いつまでも自分の手の中で囲い込もうという表れであったのだろう。

すでにその予定調和はもろくも崩れ去っているにも関わらず、それを受け入れることができずに今も私に対して同じ対処しかできないというだけの話なのだ。
そしてそれを私も素直に返すことが出来ないだけの話なのだ。

 


当時は、その意味がわからなかったが、私の最初の受験というものは幼稚園の時であった。それは母なりの、「弱い私が世間で生きていくためには良い大学を出て、良い会社に入ることが一番だ」という、盲目の価値観によるものであった。
その価値観が至上の命題であったため、外の世界と関係を持つ事によって、己の人格を形成していくべき大事な小学校時代は、「良い大学に入り良い会社に入ることが至上の価値観である」という、本人不在のもとに行われる外界からの遮断により、他者との関係によって初めて自分は存在できるという当たり前の人間関係から、私はスポイルされてしまっていた。

野球少年だった私は、いつの日からか、仲間と野球をすることも、スイミングクラブへ通うこともなくなり、塾と家の中でしか自身のアイデンティティを確立することができない存在へとなって行った。
そのためかどうかわからないが、本来、家からの唯一の逃避場所である学校と言うコミュニティの中においても、自分の存在自体がどこか空虚で、違和感しか感じることができなく、常に自分の頭の中には何か真綿が詰まっているかのようで、人々の声はどこか遠くのほうからやってくるものでしか無かった。


母の目論見どおりに中学受験に成功した私は、いわゆる”中高一貫の進学校”と呼ばれるところへ電車で片道一時間かけて通うこととなり、その物理的な距離による一時的な精神的開放を得ることとなったが、それはただの幻想にすぎなかったということを私はすぐに思い知らされた。
私は、中学に入ってすぐにクラブへと所属し、その初日に、帰宅時間が夜の9時ぐらいとなったのであるが、それが原因ですぐに私の母はそのクラブの部長へと電話を入れ、私をやめさせてしまったのである。私の体が弱いという理由で。
ここでもまた、私は他者との関係から私の意志とは関係なくスポイルされてしまったのである。

 
現在、私には、その頃の友人は一人もいない。
 

“ここではないどこかへ”

レイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメット、デズモンド・バグリー、アリステア・マクリーン、ギャビン・ライアル、ジェイムズ・クラムリー、ニーチェ・・・

思春期の頃の私にとって、それは、彼らが紡ぎ出す世界観の何物でもなく、私は、その中へつかることにより世界へと辛うじて繋ぎとめられていたのだ。誰もわかってくれないという思春期特有の孤独感とは別に、他者との関係をうまく築いていけない事による物理的な孤独感。その孤独感からも逃れられる場所は彼らの作品の中だった。


良い大学・良い会社へ入ると言う、用意された私の予定調和の世界は、親が望む大学とは別の大学に進学することで初めての綻びをあらわし、親も満足し内定旅行まで行った就職先を留年という既成事実によって断ったことにより、あっけなく崩壊する。

何が良くて何が悪いかでは無く、何を選び、何を選ばないかということだけであった。
そして、私は、彼らが与えてくれた意志により、精神的・物理的な独立という大人への成熟とともに自分の世界を忠実に選んだのである。

“ここではないどこか”というものは、結局はどこにも無く、それは初めから自分の中に存在しているものであって、ただそれに気づかない自分がいただけのこと。


私も間もなく親になる。
そして、私自身も私の親と同じ道を歩んでいくのであろう。親が私に与えてくれた経験とともに。
結果として、私がとうてい受け入れることのできなかった”母の意志”があったからこそ今の自分が在ると言うことにおいて、やはり、私は母を否定することはできない。


恐らくこの相反する気持ちは、生涯、無くなることなく私とともにありつづけ、私は母と接していくのであろう。