非日常性もそこに身をおき続ければ日常と何ら変わることが無くなるということか。


数日前に、以前、私が勤めていたところで同期入社だったやつが5年の実刑判決を受けた。もう数年以上前、私がそこを辞めた後に横領をしていることがばれて会社を首になったのだが、判決が出るまでに随分と時間がかかったようだ。その事情は良くわからないが、実刑判決が出た旨が新聞に載って、いくら横領しその金を何に使ったのかを初めて知った。

特に彼と親しくつきあっていたわけでもなく、友達であったわけでも無いので、そこにいたる経緯と彼の思いの動きを窺い知る術も無いが、おそらく、彼の中に存在したであろう日常と非日常の境界がいつの頃からか曖昧となり、それまでの日常が非日常へとシフトし、非日常が彼にとっての普通の日常となってしまったのであろう。
 
 


 

人は誰でも多かれ少なかれ、いつもとは違う非日常性というものに惹かれ、ちょっとした非日常性を体感する瞬間があると思う。少なくとも、私は、現に私が存在している日常とは違うベクトルで物を考え体感する時がある。それでも、私の中で、日常と非日常の境界が曖昧とならず、非日常の中から日常へと帰って来れるのは、恐らく、恐怖心という存在が明確にあり、また、自分が立っている軸というものが社会の中に明確に存在しているからなのであろう。

彼の顛末を知って色んなことを考える人はいるかもしれないが、私自身は、何だか一抹の悲しみを覚えてやまない。「ここでは無い何処か」などというものはどこにも無いのだから。


彼と親しくしていたわけでもないし、同情する気持ちも更々無いし、ましてや共感なんかあるわけも無く、はっきり言ってしまえばどうでもいい存在なのであるが、判決の内容は別として、日常と非日常の超えられない一線をやすやすと跳んでしまった彼に羨望と嫉妬の念を持ってしまうのは、私自身の業の深さから来るものなのであろう。

だから私は、私の中では決して存在することが無いとわかっている「ここでは無いどこか」というものを探し日常を彷徨い続けていくのである。