つい先日母方の祖母の一周忌があり、諸般の事情にもよるが25年ぶりぐらいにその手の親戚関係の会合に出席したのだが、その会合を通じて当たり前なことではあるが、自身が社会的な要因から意味づけられる年齢に達しているのだなということを強く感じた。

すでに母方の祖父は25年前に亡くなっており、そういった意味では当主はその長男へと代替わりしていて、その長男もまた高齢の為か出歩く事もままならず、その息子が代理として出席し挨拶をしたのだが、その方と私との年齢差はたかだか7年ぐらいで、その挨拶を聴きながら、血縁という狭義の社会のみならず自身を取り巻く環境と言う意味での社会でも、代替わりに差し掛かる年齢まで来てしまっているのだなと思った。

そして一昨日、今度はその当主が亡くなったので、通夜へ出席することになりその連絡をご子息から頂戴した折に、儀礼的に発した挨拶の言葉がなぜか頭を離れない。

「愁傷」

当然これまでもそのようなシチュエーションは多々あり、その都度、多少の違和感を覚えながらも一種の記号として発していたその言葉が、ふと果たして正しい言葉として発せられているのかという疑問を生じさせ、どこか虚ろな尻すぼみ的発語になってしまったのは、広義な意味で、自身の年齢が求められる社会的な側からの要求(あちら側)と、自身が持つ社会的なる物に対する空虚感(こちら側)との境界線(ボーダー)が、血縁という狭義な意味での一般的な社会へと関わらざるを得ない自身を見出した祖母の一周忌を通じて、表層へ顕在化した結果なのであろう。

 
 

愁傷…嘆き悲しむこと。

愁は秋は草木も引き締まり人の心も引き締まる季節から発し、心も引き締まる意を表し、傷みに心引き締まる意を込めての愁傷であることを心に留め、通夜の席へ臨むとしよう…。