出口の見えないループ・・・やがてそれは澱のように心の奥底に深く溜まったまま消えることなく残り続けるのみ。

人それぞれですが、私は、納得?理解?あるいは決着?がつかないと前へ進めない人間なんです。そこへ至る過程には色んなことがありますが、それなりにけじめをつけて初めて前へ進めるという。ただ、それも私自身だけでけじめのつく問題であればいいのですが、そうではない場合も多々あるので、たまに、対象そのものが手札を伏せて自ら降りてしまった場合、私自身はカードを切ることができなくなり、その時点で時計が永遠に止まってしまうのです。その時計は、自ら動かすことのできるものではなく、また動き出すまで待ち続けることしか私にはできない・・・。そしてそれは、動き出すなんてことはほとんど無くて、いつまでも私の中に残り続けてしまうのです。

・・・なんていう過去の亡霊がふとした弾みで私の表層へ、時々あがってくるんですよ。

そんな時にはちょいと暗めの事を頭の中でいじったりしてしまうんですよねぇ。根が暗いですから、私。(笑)

■Link to 自殺思いとどまるには、恨みを活力に変える by 夕刊フジブログ

しばらく前のエントリーなんですが、目にしてちょっと気になってました。


  

では、自殺を思いとどまる最も強力な原動力は何か? 神谷さんは(2)と説く。恨みが自分に向かえば自殺、だがその感情を適材適所に解放した場合、生きる活力になる。ふぬけとなった心の中にギシリと足場をつくるとき、憎しみのエネルギーは強力だ。足場を固めたら24時間、死との戦いを休戦しよう。また次の24時間、さらにその積み重ねを。一息ついて肩の力を抜き、悲嘆・苦痛・絶望・疎外感を拒まず、“共生”する。

うーん、どうなんでしょう。自分を殺すと言うベクトルをリダイレクトさせる原動力として恨み・憎しみを用いるということなんですけどね、方法論としてはわかりやすい話なんですが、危ういなぁと思ってしまいました。

恨みや憎しみを生きるための触媒にするということはどうなんでしょう。
恨みや憎しみの先に来るものは何でしょうか?
それは、どちらかが亡きものになるという1か0(生か死)の選択を最終的に行わなければならなくなると思います。つまり、恨みや憎しみの先にもまた死しかやってこない。

もちろん、この夕刊フジBLOGに書かれているエントリーには、恨みや憎しみを原動力として一息ついて考えなさいということなので、恨みや憎しみを持って生きる糧としなさいということでは無いのですが・・・。

恨みや憎しみというのは負の領域にあるものです。その言葉・中身から連想されるものもまた”死なないため”というような、ネガな要素でしかない。だから、これを触媒に使うことにより”生きるため”というポジティブなベクトルへとリダイレクトさせるのには相当のエネルギーが必要だと感じるのです。その強大さは自分自身を押しつぶして(自殺して)しまう程のエネルギーを持っているように思います。だから、これを触媒に使う危うさを私は感じてしまいます。

さて、私の場合はどうだろう。

私自身が自分で生を終わらせる時があるのなら、それは悲嘆・苦痛・絶望・疎外感と言うものではなく、虚無感から起こるように思います。私自身、熱くなれない体質というか、冷めてるんですよね、常に。あきらめとかとはちょっと違う感じなんですけど、物心ついた時からどこか違う自分が自分を見ているという感じを常に持っていました。今はもうだいぶ薄れたんですが、それでも、まだそれはここに確実にあります。
そして、何かの拍子でそれが大きくなり、どうしようもできなくなった時に、自らを終わらせることがあり得るとは思います。

そんな時は何を触媒に使えば良いんでしょうかねぇ・・・。
そんなことは無い事を祈りますが。(苦笑)