Mona Lisa Overdrive
“例えば私が宝石になったら その手で炎の中に投げて” 眩暈-鬼束ちひろ

多かれ少なかれ、何かを表現すると言う事は、自身の身を削って行う行為であり、出て来たものには、その出来の善し悪しは別にして何らかの自身の魂が投影されているものである。

この世は等価交換の原則が働いているから、無から何かを創造する事は到底叶わない。自身の内包する力のみで、何かをアウトプットし、遠くの誰かの心を動かそうとするには、それだけ大きな内在されたエネルギーが必要とされ、それは自分を介在しない外部の物で代替がきくものではない。巷ではフェイクが氾濫してはいるが…。

下手ながらも写真をやるようになって、自分のポートフォリオを改めて眺めてみると、特に意識したわけでは無いが、何らかの一貫性あるいは連続性(テーマではなく感覚的な部分での)を見る事ができ、それは、他の方のポートフォリオを見ても感じる。

それは、やはり、表現という行為の中に何らかの自分が写し込まれているからなのであろう。

 
そして、届く感動の大きさが、大きければ大きい程、削られ削ぎ落とされる魂もまた大きい…と、この人の表現を見て強く感じる。

真面目なファンでは無いが、この人の歌う世界に、どうしようも無く引き込まれる自分の魂があって、この人の歌を聴いている自分がいつもいる。

最近のアウトプットされたものはご無沙汰だったので、ネットでさくっと探してみて見つけたのがこれだけど…何と孤独で美しく気高く、なお力強く弱く…凛とした生と同時に峻厳たる死を想起させる中にも、限りなく透明に近い優しさを強く感じさせる最高のパフォーマンス…。

この人の表現を形作っている、マイノリティ、疎外感、劣等感、焦燥感、死への憧憬、贖罪…そういった感情から余計な物をそぎ落とし、より透明に純化し結晶化され開放されたこのパフォーマンスを見ると、このブランクの間に歩んで来た道のりがいかに困難であったかを思い、その限りなく透明に近く、なお儚い美しさに、切なくて泣けてくる(ノД`)・゜・。

うーん…撮ってみたい。